小野和子先生に聞く

整理:小浜正子・大濱慶子・谷井陽子・須藤瑞代・杉本史子

この記録は、小野和子先生(1932 年生、京都大学人文科学研究所名誉所員・京都橘大学名誉教授、中国明清史・中国女性史)に 2024 年 11 月 3 日に行ったインタビューの書き起こしである。第二次大戦後に各大学の門戸が女性にも開かれて、京都大学文学部東洋史専攻の最初の女子学生であった小野和子先生は、卒業後、日本の中国史研究の中心のひとつであった京都大学人文科学研究所の助手となり、明清史研究に目覚ましい成果を挙げ同研究所明清史研究班でも長くリーダーシップを発揮された。同時に早い時期から中国女性史研究を開始し、その先駆的な成果である『中国女性史』(1978 年)は各国語に翻訳されて、のちの各国での盛んな研究の呼び水となった。女性研究者が圧倒的に少なく就職・昇格での差別も蔓延していた当時、そうした環境にめげず大きな成果を挙げてこられた第一世代の女性研究者である。
また、定年直前の 1990 年代に、セクハラがようやく問題視されるようになって社会的な注目を集めた京大・矢野セクハラ事件が起こった際、被害者を擁護して矢野元教授から訴えられたが、敢然と裁判を闘って画期的な性暴力・セクハラ認定の判決を勝ち取り、各大学でセクハラ防止・対応のシステムが作られる契機となった。小野先生の『明季党社考』などの明清史研究および女性史の赫赫たる研究業績と女性をはじめとする多くの後進の励みとなる活躍に対しては、アメリカアジア学会(AAS) 2000 年度特別功労賞が贈られている。
小野先生は、現在、夫君の小野信爾氏(1931 年生、花園大学名誉教授、中国近代史)とともに、元のご自宅に近い宇治市の高齢者施設ハーモニー東風館に入居しておられる。今回のインタビューは小野先生のご希望により、下の世代の中国女性史・明清史研究者で結成したチームが実施したもので、ハーモニー東風館で行われた。インタビューは 3 時間近くに及び、前半は準備されていた簡歴に沿って小野先生にお話しいただき、後半はインタビューチームの質問に答えていただく形式をとった。本稿は、インタビュー全体の書き起こしであり、前半部分は、先生の略歴・主要著作目録とともに、『中国女性史研究』第 35 号(2026 年 2 月刊)にも掲載されている。

小野和子先生インタビュー動画

小野和子先生に聞く(整理:小浜正子・大濱慶子・谷井陽子・須藤瑞代・杉本史子)

Q:今日は中国女性史の先駆的な研究者で、また明清史研究でも活躍してこられた、東洋史分野では第1世代の女性研究者である小野先生に、いろいろこれまでの研究やその他も含めて伺えればと思って参りました。まずご自由に話していただいた上で、あとで質問させていただこうかと思います。

【生い立ちから大学まで】

小野:私は 1932 年、昭和で言えば 7 年の生まれです。私の家は元々大阪の本庄という所にあった、阪急からずっと北のほうへいって、淀川にかかる鉄橋のすぐそばです。明治以前からそこに住んでいたのですが、日本の資本主義の発展と同時に工場が進出してきて、たくさんの人がそこに住み着くようになりました。
工場労働者とか、それから朝鮮の人らが住み着いて、言うたらガラの悪い地域でした。長柄橋から 20 分ぐらいの所かな。
私が小学校 2~3 年のころに、クラスの中に朝鮮人のリン・モウカさんという人がいました。その人が頭にシラミを湧かした。頭にシラミわかすのはよくあった。いい薬がなかったからね。だから、シラミ取りの櫛なんかがあって、それですいてシラミを取るのですけども。
そのリンさんがシラミをわかして、お母さんがガリガリっとバリカンで頭を全部刈ってしまった、丸刈りにしたのですね。それを恥ずかしがって、不登校になった。それで、先生と、その時、私、級長だったので、一緒にお宅まで行ったんです。そしたらあの辺にたくさんある木賃宿の 1 つで、3 畳ほどの所に一家全部が住んでいて、彼女はいなかった。もうもぬけの殻だったんですね。以来、とうとう登校することはありませんでした。
そういう朝鮮人の人たちや、それから貧しい職工たちが多く住んでいる町でした。元々はのどかな農村だったのですが。
そんな所ですから、校区が非常に貧しくて、女学校もいい学校にはなかなか行けない。大阪市立扇町高女(のち高校)というのにトップレベルの人が行く。うちの母が「大手前(高校)はあきませんか」って聞いたら、「行ったことないので分かりません」って言われたそうです。
というわけで、市立の扇町高女に入学しました。それが戦後、学制の改革で扇町高校になって、同時に共学になった。だけども、ほとんど女子で、あとは男子の学生がごく少数いるぐらい。だから、私は共学、ここではほとんど体験しませんでした。入学当時、校長先生は京大の西田哲学を学んだ人で、すごい軍国主義者だった。なぎなたの訓練で『アサヒグラフ』を飾ったりしました。そういう先生の下で女学校での教育を受け始めたわけです。
しかし学校は 6 月 7 日の空襲で焼失、焼け残った小学校を借りて転々としました。同日、我が家も空襲で焼けました。戦後、私はその高校で津田塾出身の先生と出会ったのですね。
それは私にとって大きかった。女性の自立というようなことを主張される先生で、私はもし条件が許したら、京大なんかに行かないで津田へ行ったかも知れないと思うくらい、その先生の影響を受けました。
今は全然駄目ですけど、その頃は英語が大好きで、シェイクスピアのもの、ラムの物語などは辞書なしで読めるぐらい、一生懸命努力して、英語スピーチの大会に出たこともあります。それぐらい自信がありました。
その先生は、旧制三高の学生たちとお付き合いがあって、その先生を通じて旧制高校の文化というか、教養というか、そういうものに触れました。それだけではなくて、津田の持っていた女性の自立の精神みたいなのをそこで吹き込まれたような気がしますね。
その先生が旧制の京大を受けて、文学部へ行かれたのですが、先生が行かれるので、それなら私も京大受けてみるっていうわけで京大に来たわけです。ちょうど新制大学が出発したばかりで、私は新制の 2 期生になりました。
文学部に入学して、宇治分校に 1 年行って、初めての下宿生活です。2 年生の教養課程からは(京都市左京区の)三高、3 年生からは(文学部)陳列館(の建物)、東洋史の専攻ということになりました。卒論は「黄宗羲の政治思想」というもので、島田虔次先生の『中国における近代思惟の挫折』を読んで感激して書いたものです。
卒業と同時にちょうど、助手の話がありました。(人文科学研究所の)助手をしておられた方が辞められて、女の方だったのですね。とても字の上手な人で、『硃批諭旨』のカードを作るのを専門にやっておられた。
たまたま、その人が結婚退職されて、助手を公募することになりました。このころ人文研は創立 5 年目くらいで新鮮溌剌の気分に満ちていました。公募も形式的なものではなく、試験があって他校も含めて 4 人が受けました。当時、助手は必ず公募で、しかも割合公平にやっていたという気がします。助手の期限は一応 10 年ということで、それまでに転出を図るというふうな条件がありましたけれども、これは厳格なものではありませんでした。

【人文研の助手として】

人文の助手になって 2 年目に、当時大学院生だった小野信爾と結婚しました。当時は住宅難でなかなか住まいが決まらなくって、転居を繰り返しました。結婚 2 年目、26 歳の時に長女の潤子が生まれました。職員組合では保育所設立を求めていましたが、学内にそういうものを受け入れる雰囲気はなく、学外の孤児院に併設されていた保育所に預かってもらいました。西川祐子さん1もそこに預けておられたことを後で知りました。
この保育所では、当時流行していた赤ちゃんのうつぶせ寝をさせていたのですね。そしたらお乳を吐いて、1 人が窒息死するという事件が痛ましい事件が起こった。市役所に保育所の職員を充実せよ、と交渉に行ったけれども、「お母さんたちはそんなふうに言うけれども、そんなことはたまたま起ったこと」っていなされましたが、とてもショッキングな事件でした。
私は子どもを産む時には、必ず論文の原稿を抱えておりまして、間もなく初めての論文を、「東林派とその政治思想」というのを発表しました。学部を卒業して 4 年目だから、少し遅れた修士論文に当たるものでしょう。その前に東洋史談話会の大会で報告した時に、仁井田陞先生が褒めてくださって、「ぜひ論文にしなさい」って言って励ましてくださったのですけれども、そういう言葉にもとても励まされました。
それから、約 5 年後、次女が生まれました。今度は前に保育所に困ったからというので、出産前に福祉事務所に直接交渉に行きました。福祉事務所に行って、「とにかく探してくれなければ、私は研究をつづけられない」って言ってかなり厳しい交渉をしました。
それで、やっと馬町の乳児保育所に入れてもらったのですが、馬町というのは、(国立京都)博物館のすぐそば。遠いけどそこだったら入れてあげると言われて、とにかくそこへ入れていただいたわけです。当時、京都では乳児専用の保育所はそこくらいしかなかった。朝は、夫が子供を送っていったのですが、小野はそういうことを全然嫌がらなかった。電車で、生後 1 カ月ぐらいの赤ちゃんを連れて乗ると、はたの人は気の毒がって、「奥さんご病気ですか。お気の毒ですね」って言われた、と聞きました。
私は、卒業論文は(「中国のルソー」と言われた明末清初の思想家の)黄宗羲をテーマに書きました。4回生のとき島田虔次先生2の御本(『中国における近代思惟の挫折』)に大きな影響を受けまして、先生がここまでやっておられたら、もう私などがやれることない、と思ったのですけれども、やはり明末清初の思想史をやろうと決めて、その周辺を続きでやってみることにしました。そしてその後『黄宗羲』という専著を出しています。
そして 63 年、2 番目の子どもが生まれる年に、「黄宗羲の前半生」っていうのと、「皇明文海について」という短い文章を、同じ『東方学報』に発表しました。それから、その続きで翌年に、今度は復社のことを中心に、「明末の結社に関する一考察」というのを『史林』に書いております。

【女性史研究を始める】

女性史ですけれども、なぜ女性史を始めたかというと、2 人の子どもを産んだりして、研究を続けるのに苦闘したわけですね。だから、勉強しながら子どもを育てていくことが大変ということは分かった。当時、島田先生は後輩を育てようとしてくださるのですね。できるだけ公のものに書かせようとして、『思想』に書かないかと言われて。しかも編集者がまた女性史に関心を持っておられる人だったので、私は、「女性史でもいいですか」って言ったら、「結構ですよ」って言ってくださったので、「清末の婦人解放思想」というのを書きました。
これは、変法期を中心にしたもの、これが、私の女性史について書いた初めての論文です。

【学園闘争の中で】

その論文を書いて間もなく、学園闘争が始まったわけですね。それで、研究所の研究班は3 年半くらい全く休んでしまって、何もやらないで、歴史の部屋で「学問とはなにか」というような討論ばっかりしていました。
その中で、私ら自身も自分の学問が一体何なのかということを問われたわけですね。森時彦君3なんかが旗を持って、ヘルメットかぶって、(人文研の)歴史研究室の前で気炎を上げていました。私はそれを自分自身に問いかけるような気持で、「顔元の学問論」を『東方学報』に書きました。顔元は清初の人ですけれども、ご存じのように清朝は考証学一色になったと言いますけれども、顔元とその弟子の李塨とは、そういう中で実学、つまり実践を唱えた人たちなのですね。研究者として何か実践に役立つ学問をしたい、という気持ちにもなって女性史に目を向け始めました。
その頃、奈良女子大の非常勤講師を頼まれて、2 年間教えました。ちょうど『思想』に女性史の論文を書いたので、それを基にして 2 年間、近代の女性史をやったわけです。
たまたま学園祭に招かれて、帰ってきてその経験を私、島田先生に話をしました。当時、急進的なフェミニズムが、奈良女の若い女子学生の中に影響を与えていて、女性だけで共同体をつくって生活している学生もいとかいう話をしたら、島田先生から嫌な顔されてね。ここで 2 年間、中国近代の女性史、(19 世紀末の)変法時期だけじゃなくって、現代まで。五四運動とか 1930 年代までいったと思います、2 年間、全く手探りの授業でした。

【中国訪問】

私が中国に行ったのは、小野がよく訪中団を組織していましたが、私には却ってなかなか声が掛からなくって、行く機会がなかった。74年(私は小学校3年生)に研究所が代表団を送るという話になって、その団長の井上(清)先生は、狭間(直樹)君を予定しておられたみたいですが、私は、ぜひ行きたいという意思表示をしたのですね。それで専門は婦人解放史と書いたのですが、乗用車にご一緒した中国の先生からは女性史の話は全く無視された。それで黄宗羲に話題を変えたら俄然話に乗って来られて、やっぱり女性史では駄目かなあと感じました。実はこの代表団に若手では狭間直樹君を入れると井上先生は決めておられました。しかし彼は文革前に日中友好協会が実施した 3 か月留学に行った経験があったのですね。それで私は、「いや、今回は私も行きたいです」って申し出て、私が代わって行けることになりました。狭間君には申し訳なかったけどやっぱり自己主張しなくてはいけないとその時私は思いました。私、そんなことあんまり言わなかったのですが。この訪中は私にとって大きな財産になりました。
74年だったので、もう文化大革命の激しい闘争は終わっていたのですけれども、私たちが聞いた話は、文革はどんなふうに自分たちを変えたかという、そういう話ばかりでした。文革は失敗だったという話は全然聞かなかった。まだ文革の余炎が燃え続けている感じでした。
私の女性史で文革を比較的肯定的に書いているのはそのためです。
それから、その翌年だったと思います。中国からそのお返しの団を送るという話が起こり、そこでは私は事務局を担当して中心になって動きました。

【昇格差別】

ちょうどそれとほぼおんなじころだったと思うのですけれども、研究所で講師ポストが 1つ空いたのですね。研究所は講師ポストについて自由に使うというか、どっかへ転出させる時ちょっと肩書を上げておくとか、便宜的な使い方をしてきたのですが、その時に私でなくて、同室の A 氏が昇格したわけですね。
これには、私はものすごくショックを受けました。競争相手になった助手は、私と同い年ぐらいだけれども、学年は下だった。そして私より 5 年ぐらい後に入所されて古代史をやっておられて、幾つかの論文ももちろん書いておられました。だけど、論文の量にしたら私も結構書いていましたから、同じ部屋におった年下の助手を先に昇格させたことは、やっぱりショックを受けました。その時に島田先生にわざわざ家に呼ばれて、「今回は我慢してください」と言われた。
それは、彼の同級生(B 氏)がその前に助教授で入ったのですね。(A 氏は助手で)長くいるのに、B 氏が助教授に昇格したのでその上になった。B 氏採用についてはおそらく研究所の中に、多分かなり反対意見があったのだと思いますね。私はその時、教授会に助手代表で出ていたのですが、1票違いでやっと人事が可決された。その時 B 氏を通すために、いざこざが起こった。教授会で採決の時、佐伯(富)先生(安部先生が亡くなられた後、たまたま研究所の兼任だった)が平素は所員会にも出てこられないのに、その時だけ出てきて B さんに投票された。そして 1 票違いでその人事が通ったわけで相当反対意見があった、と想像されます。
それは私にとってはすごく不愉快なことだった。恐らく同級だった A さんにとっても、自分の上に同級生が来たということは、すごく不愉快なことだったと思いますね。
その次に講師人事があった。そこでその A さんを昇格させた。つまり恐らく B さんとのつり合いを取るためだったと思いますね。だけど、私にしたらもっと不愉快なことでした。しかも B さんの性格もあったからね。それで、余計に嫌な思いをしたのですけれども。その次、78 年に私が講師になったのですけれども、もう私は助手を 20 年以上やって 43 歳になっていたので、とてもしんどかった。
Q:結局先生が講師にならはったのは、A 先生の後だったということなんですか。
小野:いや、T さんという助手の人がいましたね、科学史に。彼が(次に)なってそのあとだった、と思います。要するに、私は完全にここで、どういうのでしょう、全く対象外のお客さまのような形になった。
そのことについて私は最初はそれほど気にしていなかったが、だんだん差別だ、と気づいてものすごく悔しいと思いました。明らかに性差別だと思ったのですね。

【女性史研究】

70 年代のちょうどその頃、フェミニズムの時代に入って、世界各国の女性史が出始めた。
私も亜紀書房が出した女性史に関するシリーズで何か書いたことがありますけれども、そういうふうに自分も差別される、という状況の中で、女性史にだんだん目が向いていった。平凡社から「女性史を書かないか」と言って打診があったのはそのような時期でした。78 年です。ただそれまでに、私は多少とも女性史に関する論文を書いていた。『東方学報』のような固い学術誌に女性史の論文が載るのは、それなりに意味があるだろうと思って、「太平天国」、「女工哀史」とか、女性史に関する論文を書いていたのですね。また共同研究の報告にも婦人参政権とかを書いていましたのでそれをまとめようと思った。
Q:あの頃そういった就職差別というか、女性の先輩方が就職非常に大変だっていう話も、それからやっぱり学生運動したりして、そういう近代史の勉強なさった方たちの就職大変だった話も、随分聞いたような記憶はありますね。
小野:私もですけど、夫の小野信爾がもう札付きでしたから。それに時代が、中国に革命がおこったから、中国史というのはなるべくおかない。中国史のポストが木工に変わった、というケースも聞きました。
そんな時に私はたまたま平凡社から、いろんな国について女性史が出版されているから、中国についても出さないかといって話があって、引き受けたわけですね。
私は、はじめみんなとおんなじことをやりたいというふうに決心して入ったのだけれども、この辺でちょっと私自身もかわった。女性差別のようなことも経験して、仕事の中で、つまり歴史の中での女性差別とそれに対する抵抗を考えてみるのもいいかも、と思った。
それまでは、研究者として他の人と同じように、男の人たちとおんなじ分野で競争したいというふうな気持ちが強かった。だけども、女性史の資料を読んでいて、やっぱり魅かれるもの、共感するものがあった。それと何か実践に役立つものが書きたい、という気持ちもあった。これは学園闘争が何らかの影響を与えたのかも。
つまらない話ですけど、こんな記憶があります。長征の時の話、その回憶録があった。それを読んでいたら、長征に参加していた女性が、夫をその途中で失った。その亡骸を置いといて出発しなければならないわけよね。前に進むわけだから。それで別れる時に、亡骸のそばに歯ブラシを置いていったのですね。あの人は歯磨きが好きだったからっていって置いていく。感動するほどのことではないかも知れませんけれども、その時はすごく何か心に突刺さるものがあって思わず涙がこぼれた。自分自身の体験もあってだんだん女性史に心を寄せるように、女性史をやってみようかなという気になってきたのですね。女性だからといって女性史はやらないというふうに決めていたわけですけれども。
私自身もいろんな差別に、差別というよりも、当時は普通の社会のことだったと思いますが。大体採る時から違うかな。採る時、私は学部卒で入ったわけですけれども、男の人はやっぱり大学院に行って、研究者になってもらわんと困る。だけど、女の人は取りあえずは学卒でもいいじゃないかというのがあったんかもしれないなと、思うんですけれどもね。それはちょっと考え過ぎか知れませんけれども。

【京都大学女性教官懇話会の結成】

最後に女性教官懇話会結成、1980 年の時ですね4。これは国連から何人かの女性が京大を訪問するというので、その歓迎会を準備するということで、大学側が女性の教員を集めようとしたけれども、女の教員がほとんどいない。そこで教授夫人などを集めたが、学内からもやはり教員をださなくちゃいかんいうわけで、声を掛けられて、それに応じて行ったのが 2人だったのですね。その 1 人が、経済研究所におられた東大出身の瀬尾(芙巳子)さん5で、私と 2 人行って外国のご婦人方の相手をした。
その帰途、瀬尾さんと 2 人で「いくら何でもひどいわね」っていう話になって、「女性教官懇話会っていうものをつくりましょうか」ということで懇話会の結成に至るわけですね。
だから、国連の人の訪問歓迎会で男性ばかり集めたところへ、私たちが呼ばれて、懇話会をつくるきっかけになった。その 2 人が中心になってやったという意味では、京大の側がたまたまそういう機会を提供してしまったわけですね。
だけども、そんなに堅い組織をつくってしまうとなかなか難しいから、取りあえずはゆるやかな、レターくらい発行する程度にしましょうということで、1 回か 2 回集まりを持ったと思いますけれども、頻繁には集まらなかった。お弁当一緒に食べることが 2~3 回あったかなというぐらいの感じだったですね。だけど、それが生きたわけですね、矢野事件の時に。
しかし私自身はその後三重大学に教授として転出をしました。それとおんなじ年に、私は京大文博を取ったのですね。じつは博士号は取らないつもりだったのですが、たまたま指導してくださっていた教授が 1980 年に定年で、先生にお聞きしたら、やっぱりとっておいた方がいい、と言われた。先生は何度も私をどこかのポストにつけよう、と努力してくださったのですが、やはり、博士号をとっておいた方が有利ということを痛感されたようです。ただこの時は三重大学の新設の人文学部に行くということが決まっていたのでその前に女性史について書いたものをまとめて文学部に、女性史の博士論文を出すことも意味があるかも知れない、と自分なりの意味付けを考えて今までに書いた女性史の論文をもういっぺん書き直して、夜に日を継いでいうか、日に日を継いでいうか、書きまくって 3 冊の「近代中国女性史研究」というのを出したのですね。(審査委員は)島田虔次先生と谷川道雄先生と萩原淳平さん。
その後、私が三重大学に行くことについて、講師から急に教授というのはどうか、というので、研究所で助教授に、3 カ月ほどだったかな、昇進ということになりました。
その後、私の女性史の英訳をやってくださった方があって、ジョシュア・フォーゲルさんっていう、今トロント大学におる方。それから、スーザン・マンさん6
スーザン・マンさんが、この頃日本に来られて、私が三重大に移動するため本を片づけていた時だったのですね。それをご覧になってて、何となく差別という感じがされたのだろうなと思います。89 年に女性史の英訳が出て、スーザン・マンさんが中心になって進めてくださいました。フォーゲルさんと私とは別に親しい関係ではなかったけれども、日本の中国学者 10 人選んだ中にも入れてくださったりしています7
これが、とりわけ外国で女性史の英訳が出たのは業績となり、教授で人文研に戻してもらうことになりました。定年まで 4 年間しかなかったのですけれども H 君などが奔走してくださって、結局人文に帰ることができました。私は帰れたら東林党の研究をまとめたい、と考えていたのでありがたく思いました。
女性史の外国語訳が出たっていうこともあったのでしょうね。人文に帰ることができたのは嬉しかったけれども、今度は、矢野セクハラ事件に遭遇することになった。

【矢野事件】

研究所は幸い明代関係の文献をたくさんそろえましたから、それをできるだけ利用して、『明季党社考』をまとめようとようとしたわけです。ちょうどそこへ矢野事件が起った。私は黙ってられなくって、忙しいのに、こっちのほうが大事やと思って著書の方は置いといて、矢野事件に関わりました8
その間『京都新聞』の紙上でセクハラ論争をしたのですが、その間には矢野を擁護する学外の某教授から脅迫まがいのいやがらせもありました。
Q:野田さんも京都新聞にあの時書いてはりましたけど、来たんはその前ですか、後ですか。
小野:その前です。できれば内々に収めたいって思ったわけですよね。私を説得して、内々にしたかった。だけど、それに私が応じなかったわけ。
それで、結局私はこれを引きずったまま橘女子大へ。この橘女子大も前から決まってたのですが、そこから矢野裁判を戦ったのですね。矢野裁判は 4 件ありましたけれども、私の裁判がそこで立証したことは、他の全部に通ずるというような形だったものですから、非常にうまくいったと思います9
遅れて 96 年、1 年遅れてですけれども、同朋舎出版から『明季党社考』を出しました。これは新しく書き足したところもあるのですけれども、以前に書いたものを一応まとめたものです。
この年に台湾とソウルを初めて訪問した。台湾は、私は国家公務員である間は行かないというふうに決めていたので、招かれながらよう行かなかったのですね。そのおわびも兼ねて台湾に行った。またソウルの人たちはとても私を評価してくれたのに、やっぱりソウルにも行ってなかったのですね。それでそこも訪問して、一応の義理は果たしたっていうわけです。
矢野訴訟は勝って、2000 年度の、もう 2000 年に移りますけれども、スーザンさんなんかが多分奔走してくださったんでしょう。AAS(アメリカ歴史学会)の 2000 年度の特別功労賞というものを頂きました。これはとても重い賞のようで、丸山眞男さんがもらわれた賞ですね。とても私なんか頂ける賞じゃなかったのですけれども、頂きまして、とても感激しましたけど、恥ずかしかったですね。私ごときがこういうのを頂くなんて。
Q:スーザン・マンさんが会長だった時ですね。
小野:スーザン・マンさんがあの年 AAS の会長だったのです。だから、スーザンさんを会長に押し上げた女性の力というのがあったのでしょうね。70 歳で橘大学を定年退職しました。
そののち『明季党社考』の中国語訳が上海古籍出版社から出ました。訳者は金沢大学の中国人です。上海古籍というのは、中国の書店ではなかなか有名な、岩波みたいな堅い書店ですから、そこが出してくれたというのは、とても私にとってうれしいことでした。

ついで、上海古籍が『海外漢学叢書』いうのを出し始めたのですね。その中に、入れてもらえた。日本人では仁井田さんとか 3 人か 4 人ぐらいしか入ってないですね。
Q:そうなんですか。

【老老介護】

それから後はしんどい老後に入るんですけれども、夫が 77歳の時に脳梗塞を起こしたわけですね。しかも要介護 4 という重症だった。私は施設に預けてしまうのが嫌だったので、人を頼んで自宅介護しました。それと同時に、このハーモニーという福祉施設も利用させていただいたので本当に助かりました
ハーモニーというのは、地域社会が盛り上がってつくった福祉施設なのですね。(現在居住している)ここもハーモニーの 1 つなのですけれども10。以前住んでいた(宇治市)御蔵山にも、普通の家のような、ちょっとお隣に行くみたいな、縁側に腰掛けた、そういう感じの施設があった。私は定年後に町内会の役員をしていてそのニュースを聞いたものですから、それはいいなと思ってたところへ小野が倒れたものですから、そこにお世話になりました。そこはもと、老夫婦が住んでおられて、2 人とも徘徊され近所の人がそれを探し回ったんだって。そういうことがあったものだから、ご老人に役に立つように使ってほしいということで、家を提供された、と聞きました。だから、そこに小野は要介護 4 だからかなり重かったのですけれども、そこに昼は毎日通うという、夜はお手伝いさんを頼むというかたちで。
ただ、その間に西川祐子さんが来られて、小野の『占領期獄中日記』11って、占領期に小野が(ビラ撒きをして逮捕され、獄中にいた時に)1 年間日記を書いていました。それを「ぜひ出さないか」って言われて、京大学術出版会から出しました。それが 2017 年。
その後も家で介護していたのですけれども、やっぱり小野自身が重く、動きが悪くなってくるのと、私自身が体調が良くないというので、ハーモニー東風館、ここに入ったわけです。
私が 92 歳で小野が 93 歳。私は要介護 2、夫は要介護 4 です。
そんなわけで、地域とつながる場所に住めたということは、とても幸せなことだというふうに思っています。ここは、割に地域に根差してやろうとしておられるから職員さんたちも普通の職員たちと違って、そういう教育を受けてやってられるから、普通の介護職員とはちょっと違った人間的な対応があるんですね。小野の勤めていた花園大学出身も多い。

Q:そうなんですか。職員さんたち?
小野:職員さんたち。というのは、京都で福祉学科を置いたのが花園大が初めてなんですって。仏教福祉いうことで置いたみたいです。「先生の講義聞きました」言う人たちがあって。
Q:いろいろ貴重なお話をありがとうございました。

--- [休憩] ---

【左翼学生運動への就職差別】

小浜:昔、結構就職差別っていろいろありましたね。女性だけじゃなくて、その左翼学生運動差別というのがあって。
小野:その差別いうの、ありましたね。それでも島田先生なんかが一生懸命やってくれはったんですけど、ほとんど就職の話が決まってるのに、(小野信爾先生が)なんとかの声明なんかに名前をつい出して、東大闘争を支持するなんて。自分で壊したみたいな。
谷井:それでその話は。
小野:駄目になった。いや、でも、とにかく花園に入れてもらったから、何とか。

【最初の女子学生・女性教員】

小浜:じゃあ、先ほど伺ったお話を念頭に、少し質問さしていただいたらと思います。まず杉本さんから、もうちょっと突っ込んでっていうふうなところなど。
杉本:立命館大学などで非常勤講師をしております、杉本と申します。よろしくお願いします。まずは、東洋史に一番最初の女子学生として入られたということなのですけれども、先生お 1 人?
小野:1 人だった。
杉本:その時のご苦労とか、そういったことがありましたらお伺いしたいのですけれども。
小野:いや、私はあんまり人がどう思っていようと関係なかったような気がするな。
杉本:全然気にされなかった?
小野:むしろ最初やから負けないように頑張らないと、という気持ちのほうが強かったと思いますね。あんまり人に何か言われてくすんだっていうふうなことはなかったですね。
杉本:環境的に女子学生が学べる環境っていうのがありましたでしょうか。
小野:そこは一緒にみんな、クラスメイトと研究会なんか一緒にやっていましたから、それはそんなに感じませんでした。
杉本:あんまり気にされずにっていう。
小野:感じなかったですね。ただ、研究所に入った時は、事務員にとっては女が助手で、自分が職員でというのは、男の職員にはやっぱりあったみたいで、私は事務官にいじめられて、泣いたことがありましたね。職員からね。何やったか、もう中身は忘れてしまったけど。その時は涙をこぼしたな、人の前で。職員にとってはやっぱりものすごく嫌だったのでしょうね。助手は一応、教員だから。自分らより後輩のあんな女の子がっていうのはあったでしょうね。事務官の人からいじめられて、私泣いてしまって、上山先生から「どうしたのか」って言われたことあるわ。
杉本:職員も男性の方が多かった?
小野:多かったですね。初め、2 人か 3 人しかいなかったん違うかな。女の人。私行ったころは 2 人か 3 人しかいなかった、12~13 人いる中でね。

【女性教官懇話会】

杉本:次の質問に飛ばせていただくんですけれども、少ない先生方の中でこの京都大学女性教官懇話会というのを、先ほど経済の先生とつくられたという話だったんですけれども、そこではランチでも食べながら緩くつながるっていうふうなことだったんですけれども、そこを少し詳しく教えていただけませんでしょうか。
小野:経済研究所の瀬尾さんの方針で、もうあんまり束縛したら人が集まらないから、もうできるだけ緩い、会費も何も払わない、そういうぼんやりとした会にしといたほうがいいという意見でしたね。私、そんなので大丈夫かなと思いましたけれども、結局それがうまくいったのじゃないかな。会費を払って会員だけでやってっていうことになると、何かやるときにむつかしい。例えば矢野事件なんか起こった時にはゆるやかな組織であることが、よかったと思いますね。
杉本:定期的に、何かこの時に集まるみたいな。
小野:お昼のご飯を研究室で一緒に食べましょうとかいうふうなのもやりましたけども、あんまり集まらなかったね。今はまた新しい組織ができているようです。
谷井:最近のことは知らないですけど。
小野:そう、今は私らの時と違って男女平等を国が推進せねば、という時代ですから、託児所もできたしね。時代の雰囲気が全然違うね。
小浜:この 80 年ごろっていうのは、第 2 波フェミニズム、いわゆるウーマンリブが 70 年ぐらいに日本でわっとなって、その時にやっぱりネットワーキングのつくり方っていうので、いろいろそれこそコミューンみたいなのから、もっと緩いのも含めて、いろんな人がいろんなことをやったと思うのですね。ちょうど 80 年っていうと、京大の学生の中で女解放研究会ができたのもほぼ同じころだったと思うのです。あれはリブの流れをくんでいる組織で、そういう感じっていうのは何となくやっぱりあったのですかね、当時。
小野:いや、そういう中には、核にはそういうのがあったかもしれないけれども、瀬尾さんの方針では、できるだけあんまり垣根をつくらないでおこうということでしたね。
あまりそんな呼び掛けもしなかったね。それで、矢野事件起こった時のビラなんかも、研究所の中に無差別に置いとくだけで、別に入ってくださいとか何とか、そういうことは言わなかった。
小浜:矢野事件の時は、研究所には谷井さんが助手でおられたけど、他にも女性いてはったんですか。
谷井:いらしたと思いますけれどもね。
小野:東方部にはいなかったんじゃない?
谷井:森賀(一恵)さん、あの頃。先生がいらしたころにはいらっしゃいませんでした?
その後、西洋史のほうにもいらして。
小野:懇話会は当時と違ってメールという武器ができたから、それで新聞を出したり、大学も協力的ですから、男女共同参画ということで、大学にそのためのセンターを設けましたから、そこが中心になって広報活動もやってるみたいですね。私の所にも時々送ってくる。だから、半ば公の運動になってますね。
最近、託老所もつくったらどうかと思うのですよ。やっぱり京大の先生なんか、どこに行っても話が合わない。
谷井:なるほど。
小野:だから、困ったから、ご自分の本を読ませたら一生懸命読むけれども、他人の本は読まないのだそう。私も確かにそう思いますね。
私は、書いた後は自分の論文読むのが絶対嫌で、読んだら間違いを見つけたり何やかするから、もう後は見ないということにしているのですけれども、ここへ来てからは自分の論文はよく分かる。読んだら確かによく分かる。むしろよく書いたなと思うのね。間違い見つけてもあんまりもう気にならないのですよ。その時やったらまだいっぱいいろんな資料も頭に入ってるわけだから、あれとこれとはちょっと違うなというふうな、いろんな細かいことがあるのですけど、そんなこと全部忘れてしまっているじゃないですか。それで読んだら、ちゃんと書いてあるなというふうな、もう気楽な気分になるのですね。もう何にも頭に残ってないからね。だから、ほんとに託老所を設けたらどうかなと。みんな困ってはりますよ。自分の本を置いて、自分の本を読んで喜んではるって。そうでなかったら、なかなか介護施設行かないって。

【近年の中国】

小野:(19)89 年の天安門事件が起こった時に、私の所に訪ねて来た中国の大学院生がいて、工学部の学生でしたけど、「中国女性史とあったので全部読みました」って、博士論文も読みましたって私のとこへ訪ねてきて、2 回ほど天安門事件の報告にも来てくれて、ものすごく泣いた。まだ研究所にいる時でしたけれどね。
小浜:それは日本に来てた?
小野:日本に留学してた学生。もう帰ったんじゃないかな。今やったらどうか知りませんけど。だけど今、ものすごく出版事情悪いんだそうですね。近代史に関することは、幹部の親とかおじいさんとかに関することは、一字間違って首が飛ぶというふうな、そんな事件が起こったりしてるそうですね。だから、近代史についてはちょっと出せないっていう話ですね。
小浜:近代史も出せないから、現代史も全然出せない。
谷井:そうですね。清代史でさえうるさいって言われる。
須藤:大学院生で日本に来てる子たちも、例えば調べてる対象の人が、国民党にちょっと関係がある人が出てきたら、これはもう書かないようにしようとか、そういうことをしている。
かわいそうですね。
小野:ほんと難しいですね。小野の『五四運動在日本』12の翻訳も、武漢大学で翻訳がすんでいて印刷の直前までいってるんですけども、出せない。武漢大学出版社が予定してたんです。
谷井:それはどこがいけないという?
小野:あまり現代のいろんな人に関わってくる。名前がいっぱい出てくる。
谷井:細かい点で。
小野:名前が関わってくると、おじいさんや、おばあさんでもいろいろあるじゃないですか。
そういうのに関わったら、一字間違っても首が飛んだ人がおる。ものすごく厳しいんですって。「それは文字の獄ですね」と言ったら、「いや、文字の獄以上ですよ」って言われた。
ある中国人が先日しゃべっていったけど、幹部の親戚の名前を一字を間違ったからといって、首が飛んだ。「文字の獄以上ですよ」って。
谷井:そういうの嫌ですね。全体的な傾向でさえないんですね。思想傾向がどうこうでさえないわけですね。
小野:そうですね。
杉本:だから、中国共産党は、五四運動そのものは評価しているんだけれども、そういう細かなところが問題になってくるのですね。
小野:五四運動の討論会、よくやってたじゃないですか、五四運動の討論会そのものがなくなったのね。
小浜:なくなった?
小野:うん。なくなったというか、もう開かなくなった。
小浜:9 のつく年は(1919 年の)五四運動の何十周年やるとか、辛亥革命も何十周年とか。
小野:やらなくなったのですね。だから、近代史はものすごい難しいですね。
小浜:そうですね。今、日中戦争、向こうで言う抗日戦争が、最近は 15 年間だってことになっているそうで。だから、抗日 8 年なんて教えたら、首かどうかは知らないけど、少なくとも注意は受けるのだそうです。
小野:それが植字工にまで及ぶんやって。だから、一字を間違えたから、誤植があったからいって首が飛ぶ。だから、「文字の獄どころやないですよ」って聞きましたけどね。
小浜:いろいろ現場で、それこそどういう人に当たったかっていうのはあるんだけど、その辺は、こっちは分からへんからね。必ずそうなるっていうわけではないけど、何が起こるか分からん。
小野:そうそう。目を付けられてたら、ちょっとのことでも引っ掛けるんでしょうね。
あなたは長く中国におられたから、いつ帰ってこられたんですか。
大濱:2011 年です。
小野:ほんなら、もう 10 年たってるわけですね。
大濱:もう一番いい時に、中国が非常に開放的な時に居られたと。いや、もう。
小野:10 年もおられたら、いろんな複雑な内部の仕組みなんかも。いろいろ見えてきたもんがあるでしょうね。
大濱:そうですね。深く中国に、中国の職場でしたので、いろんなことを体験させていただきましたけど、ほんとに今から思えば。公的な身分でありながら、NGO 活動とかも(できた)。女性学は婦女連の方も NGO 活動、草の根の活動で広めてましたし、とてもいい時期にいられたと思ってます。
小野:そうですか。
大濱:はい。ただ、先生にちょっとお伺いしたいのは、中国は改革開放以降、歴史もそうですけど、特に近現代史に関して、いろいろ解釈が変わってくる。私もどちらかというと、現代の問題がテーマなんですが、中国のほうで解釈ががらっと変わると、先生もご著書をお書きになられておられますが、どういうふうにして研究していったらいいのか、中国のほうの歴史の解釈が変わってきた時に日本人の研究者の立場として、どういう姿勢を貫くのがいいか?
小野:難しいですね。だけど、日本人としては考えたように書くしかしょうがないんじゃないですか。直接官憲の手が及ぶわけではないですから。だけど多少中国との関係は、悪くなるでしょうね。例えば学会に招聘されるとかそういうことがなくなるとかね。そういう罰は受けるかもしれませんけれども、まだ外にいるんだから、何ていったって。
谷井:そうですね。内部にいる人はそれが怖いですよね。直接官憲の手が及ぶかもしれない。
小浜:ちょっと最近の状況っていうのは、私も想定外っていう感じは持ってるんですけど。
やっぱり 90 年代から 2000 年代っていうのはどんどん開いていって、そういう中で、それこそ去年は見れなかった資料が見れるようになるとか、向こうの学会行ったら、こちらがちょっと踏み込んで物を言うことを非常に歓迎されてる感じもあったし。
そういうのが、たまたま 2019 年に久々に少し長く中国にいて、5 月から 7 月の 3 カ月の間に、日ごとにきつくなっていくのが分かったんですよ。ちょうど香港でがたがたしてる時期で、間もなく建国七十周年があるっていう時期で。その後、そのままコロナに突入して、もうそれでがっちり。どんどん開いてくのを経験していて、ちょっとその後の状況に、どう対応していいのかっていう感じはありますね。
小野:例えば、程郁さんなんかが、いや、こんなこと書いて大丈夫かな、ちょっと思う時ありますけれども、程郁さんぐらいのことは書いて大丈夫なの。
小浜:程郁さんはもう完全に退職しておられるから、多分問題ないのでは。
小野:そう。だって、セクハラのこと書いたって、ひょっとしたら幹部の中にいっぱいあると思うんですよ。だから、誰かを目当てにすると。
小浜:それはありそうだけど、やっぱ標的がたくさんあり過ぎてっていうか。でも、セクハラ(反対運動)っていうか、#MeToo 運動は 2019 年にやっぱり中国でかなり盛り上がって、2022 年にもまたいくらか盛り上がって、それなりに弾圧もあるんだけど、でも黙ってないような感じになってるみたいですね、向こうの人たちがね。
小野:だけど、陰湿よね、それ。
小浜:いや、でも、実を言うと日本でも、『京大・矢野事件』の本をすごく久しぶりに取り出して、ちょっと読んでいたら、30 年前はこんなんやってんなっていうのをすごく思いましたね。
小野:セクハラについては随分進んだね。
小浜:それはやっぱり、今は全然違う、大学の対応が。セクハラの訴えがあると調査委員会を作って調査して、必要なら処分するようにはなりました。
小野:そうですか。
小浜:はい。やっぱり 30 年前とはだいぶ違うなと思いました。相談窓口っていうの、ほんとにどこの大学でも必ずあって、ちゃんと対応しますよね、一応は。学生も言うてくるからね。
やっぱり不愉快だったから、この先生そのまんまにしとかんといてくれって言ってくる。
だから、そういう意味では、『京大・矢野事件』を読んでて、昔ほんとにこんなひどかったんだっていうの改めて思ったんですけれど。
杉本:ほんと大学における事件としては、「矢野事件」は画期的な、セクハラが裁判で認定された事件。セクハラだけじゃなくて、セクハラ、プラス、アカデミックハラスメント。
大濱:アカハラ。
須藤:そういう言葉がない時代。言葉そのものもなかった。
谷井:何か結構ちゃかされてる雰囲気があったような。
小浜:セクハラっていう言葉は、当初ね。
小野:だから、京大の女性教官懇話会が今出してる、ネットで会報送ってくるんだけど、見てると、もう何か大学側と変わらないみたいな感じですね。そんな大学と対立するっていうふうな感じじゃなくってね。
杉本:こちらの本(女性研究者の会・京都編『女性研究者は歩む―20 世紀から 21 世紀へ―』1999 年)を筧久美子先生から頂いて、小野先生の(インタビュー記録の)文章も読ませていただいて。
で、ここで書いてるメンバーはこの懇話会のメンバーなんでしょうか。
須藤:坂東(昌子)先生と脇田(晴子)先生、あと筧先生と小野理子さんと。
小野:女性研究者の会っていうのは、島田(筧)久美子さん、中文で言えば。それから坂東さんがここに入ってるね。登谷(美穂子)さんもそうだけど、大体どちらかといえば代々木に近いグループじゃないかな。多分そう。私は書いてますけれども、そういうことは知っててしゃべったと思いますよね。
小浜:さっきちょっと代々木の人たちと新左翼の人たちと、やっぱりその辺が、別に殴り合ってるとか、そういう時期ではなかったけど、対立してるのは割と肌で感じて。
小野:そうですか。
小浜:うん。特に東洋史は両方おったっていうか、それに割と保守的な人たちも三つどもえなのが、とにかくきちんと史料読んで実証しましょうっていう一点で何とかまとまってはい
たけど、以前のことを見ればいろいろあるみたいな感じやった。そういう中で、だから、結構それこそ代々木系の人たちと新左翼系の人たちと、男性たちはそれこそ口も利かないに近い感じ。
谷井:そうです?
小浜:そこまでいかないにしても、よそよそしい感じを持ってたんですけど、女性は数が少ないっていうのはもちろんあると思うんだけど、でも、割とこだわらずに仲良くやってるなっていう印象を、私はすごく持ってるんですよ。この人たち、その女性研究者の会にしたって、あるいは懇話会にしたって、そんなこと言う以前に、少ない女性たちが、やっぱりダブル・バーデンなどで共感するところもあって一緒にやってるなっていう感じは、割とあって。
小野:そうですか。東大でも、どこもそうじゃないですかね。私のおった頃で言えばね。もうそういう対立してる場合じゃないという、女性の側がね。絶対数が少ないわけだからね。
でも、私は島田久美子さんなんかがやってた女性の会っていうのがあったんですよ13。それには全然入らなかったな、あの頃は。
小浜:筧先生ですね。
小野:筧さん。ただ、組合がそういう人たちも入ってますからね。組合の執行部には、私 3回入ったか、執行委員。3 回とも保育所問題で活動したんですけれども。
小浜:京大の組合っていうのは、割と組織率高いんですか。
小野:研究所全員のはずです。だから、特に言わなければ、何か研究所でまとめて組合費を払うみたいなのでやっててね14
杉本:保育所の建設?
小野:組合ももちろん要求して、それは建前として要求するでしょうけど。だけど、実際には総長交渉とかそんなんで、いや、総長交渉は割に大きいんのと違うかな。給料天引きで組合費も取ってましたよ、私のころは。
小浜:今、研究所は女性は結構いるんですか。
須藤:それなりにいますが、ただ、文学部の歴史担当の先生で女性が誰もいなかったみたいで、去年まで。文学部で、女性の先生が歴史を教えるっていうのが一つもないという。私、去年集中講義で行ったんですね。そしたら、女性の先生が歴史を教えてるのが珍しい。文学部の他部門はいるんですよ。文学であったりとかメディアだったりとかはいらっしゃるんですけど、歴史の先生がいない。
小野:フランス語は新任教授が確か女性ですね。他にも……
谷井:今年東洋史に入られたんじゃない?
須藤:入られましたね、箱田恵子さんが。歴史は男の領域みたいな雰囲気だったんで。男の先生ばっかり。でも、彼女たちはやっぱり研究者を目指したいけど、モデルがいないとしきりと訴えていて、そうなの?って話を聞きました。
小野:そうですか。
須藤:小野和子先生の話はしました。
小浜:いや、私の学生の時は、私より上って 4~5 人しか、(京大の東洋史で)大学院いらっしゃった方はいなくて、先生が研究所にいらっしゃる以外は、誰もまだ就職してなかったんですよね。やっぱり上を見ると結構大変そうっていう感じはあった。
小野:就職の場合、男と女と出すと、男のほうとなって、だから、なるべく男のほうを出すということになるんでしょうね。
小浜:そこで男のほうを出す。だからやっぱり、そこで、いや、それでももう公平に順番でっていうか。
小野:そうですか。
谷井:私と同時期かその前後で、女性の人を候補として打診したら、「男の人紹介してほしい」みたいに言われたっていう話は聞きました、某大学で。

【活躍する教え子】

小野:京大で白眉教授というのあるでしょ、ものすごい優秀な。私が橘で教えた学生が 1 人、白眉教授に入ったんですよ。その彼女はチベットをやってて、チベット大学に 3 年間おったんかな。そこに住んで、もうチベットの教義にもものすごく通じて、向こうでも優秀だったようです。その彼女が白眉教授の中に入った15
小浜:素晴らしいですね。
小野:もちろん資料が橘なんかにあるはずはないですから、英語のものを使って。大学院は大谷かどっかで行って、チベット大学に留学したんですね。結局チベット人の旦那さんと結婚してもう完全な中国人になっちゃったわけね。彼女が白眉教授に入りました。
小浜:いや、ほんと行ける時にちゃんと行ってっていうか、今は外国人入れないですからね。
小野:そうですか。だから、橘にもそんな優秀な学生がおるんですね。やればね。それで、現地に飛び込んで、もう何年も修行をおんなじようにしてね。

【博士学位】

大濱:先生が博士学位を絶対取らないと決めておられたっていうの、何か理由があったんですか。
小野:いや、つまりもう今は博士課程みたいなのができてるわけだから、博士は取って当たり前ですけども、あの頃は博士を取らないというのに一つの価値があったわけ。そんなに人に自分の価値を評価してもらわんとあかんのかというふうなね。
大濱:なるほど。
小野:そういうのがあったから、私も取らない、取るつもりはなかったんですけれども、島田先生が 80 年に辞められて。辞める時に私は「どうしたらいいですか」って言ったら、「やっぱり取ってたほうがいい」っていう。あの先生は私をどっか売り込もうと思って、苦労してくださったんですよ。その時に、博士を持ってたらひょっとしたら行けたかもしれないことがあったんでしょうね。
小浜:それで私、実を言うと、先生から「学位取りなさい」って言っていただいたことがあって、「もうあれも方便やから」って言って。そうか、その元は島田先生だったんだ。
小野:島田先生がそれで、もう先生が辞められる年に、私ぎりぎりやけど取ったんです。それも女性史で取ったわけね。文学部に女性史の論文が提出されることもそれなりの意味があるだろうと思って。
大濱:それは、女性史で博士学位を取られたっていうのは、日本では少なかったじゃないですか。
小野:そうでしょうね。そんなん調べたことがないけど。
小浜:80 年はそりゃそうですよね。
小野:80 年で島田先生は終わりやからね。もうその時に取るか取らないかっていう時に、迫られた時に、あの先生なんかはもう今は博士なんか、博士取れるというふうになってきてるんだから、特別な意味持たないわけだから。だから、「持つものは持っといたほうがよろしい」って言われたからね。あなたなんかは取るわけ?
谷井:取りました。
小野:そう。本を。
谷井:はい、出すように言われて。
小野:出しはったね。私なんか一生懸命書いたんよ。手で、三冊。
大濱:それはすごい。
須藤:それは読みたいです。
小野:原稿用紙に書いた。だからもうインクは多分消えてると思う。
須藤:それはほんと読みたいんですよね。公開をぜひプッシュしてください。読みたい。
小野:だから、学士とおんなじようなものね。自動的に取れるわけだからね。だから、それを持ってたほうが有利か不利かで決めたらいけないかもしれないけど、そんなに。
小浜:今もう持ってないとマイナスだからね。
谷井:そうですね。なんで取ってないんだみたいな。
小浜:でも、ちょうど 80 年代、90 年代、まだ境目で、持ってたらちょっと有利っていう時期がありましたよね。
谷井:私よりもちょっと下ぐらいから、課程博士を取り始めて。それはもうあっという間に普通になりました。
小野:ごく普通のことなんだよね。
須藤:そうですね。私の時は、もうほぼみんな取りなさいっていう。少し上の代は、取ってる人と取ってない人がまだいる感じで。
小野:そんなの取るもんかと思ってました。だけど、やっぱりそれで落とされたこともあるわけ。だから、(島田)先生は持っておいたほうがいいというふうに言われたからね。もう辞められる時に。他の人に審査してもらうのは嫌やからね。

【プレッシャー】

杉本:ちょうどご出産をされた時に論文を出されたっていう話なんですが。すごいですね。
小野:そういう時は、やっぱり何かしとかんと具合が悪いという気持ちが働くんですね。何か、それだから仕事ができない言われたら嫌、という気持ちが働くから。だから私、京大病院入院する時に、ゲラ持って入ったん覚えてるわ。それぐらいきっちり気持ち持たないとやっていけなかった時代よ。私らの時代はね。
小浜:そうすると、先生から見て下の世代の人たちって、やっぱりそういう意味では緩いなって思われることとかあります?
小野:いや、私らの時代はひどかったと思うけれども、それも今は当たり前になってるんでしょうね。そういうふうに思いますね。
小浜:だから、私なんかは、先生の時ほどではないにしても、でもやっぱり差別はしっかりあったし。だから、私もとにかく仕事決まるまでは女性史はやらない、表面では。自分で勉強は、ジェンダーの勉強とかはしてたけど、一応博論はそうではないので。
小野:博論は何やった?
小浜:博論はだから上海史で。
小野:上海史。
小浜:そう。で、就職してなんですけど、就職差別もかなり受けたと思ってるんですけど、最終的にもういろんな先生のおかげで何とか潜り込んだんだけど。だから、そういう我々なんかから見ると、今の若い人ってほんとにあんまり差別とか気にしてないっていうか、感じてないんですよね。
小野:あなたなんかどう?
谷井:だから、私は京大の東洋史を出た女性の中で研究職就いたの 3 人目だって言われたんです。2 人目が西南アジア史の方でいらしたみたいで、そんなんで、ほんとにたまたま人文研の助手の募集があったというので、うまく採用してもらえたけれども、それがなかったらきつかったんじゃないかなっていう程度の雰囲気はありました。
小野:そうですか。
谷井:さっきも言いましたように、女性でどっかに推薦されて、打診の段階だったみたいですけど、されたら断られたみたいな話も聞きましたし。
小野:だから、私なんかも知らない話がいっぱいあると思うんですね。消えてしまった話っていうのもね。ただ、私は小野が就職がなかったから、その後花園に決まったんですけれども。だけど、何か辞めろというような圧力を感じたことはなかったですね。
小浜:助手採用後 10 年過ぎても。
小野:辞めろというような圧力は感じなかった。
小浜:そういうのはなかった?
小野:いや、こっちも辞める気もないと分かってたからでしょうけれども、そういう圧力はなかったな。
小浜:信爾先生はいつ就職?
小野:66 年ですね。38歳16ぐらいだったと思う。
小浜:それは当時としてはかなり遅い。
小野:それも、学校通じてではないからね。
小浜:そうなんだ。
小野:大学、全く行ってなかったもんね。ほんとに私がもう腹が立ったことがあるわ。何か、博士課程に入って奨学金が増えるのに、その看板をさえ見なかった。その頃 2,000~3,000 円っていうのもやっぱりものすごい大きかったわけですよ、家庭にとってね。それなのに、私が見たのに、彼はまだ見たことがない、そんなん見てないっていう。いや、もう平気なんよね。
谷井:10 年。ずっと先生が生計を支えておられたってことね。
小野:そうそう。全然何にも思ってなかったみたいですよ。そんなん当たり前やと思ってて、あの人は。そういうとこがいい点でもあるし、悪い点でもあってね。あんまりそういうことを気にしない。「こないだ博士課程の奨学金増額の掲示あったよ」って言って、あの頃修士は2,000 円で、博士は 5,000 円やったんよね。
小浜:それはかなり違う。
小野:ずっとこれが「そんなん知らん、見たことない」って言うて。大体学校行かないもの。

【家事分担】

小浜:信爾先生は家事はかなりなさるんですか。
小野:私とこは、料理が好きなんですよ、ものすごく。とくに中華料理やったら 1 人でフルコースできた。あなたは知ってる?
谷井:はい、素晴らしかった。
小野:フルコースができた、いわゆる。好きだった。中国の人を招待して、それで喜んでもらえるぐらいの。
小浜:それは素晴らしい。
小野:神戸まで行って、タンですか。タンを幾つか買うてきて、3 日ぐらいかかってお正月前に作ってましたわ。
大濱:すごい。
小野:上海やったか、いろんな中国のいろいろ材料買うてきてね。だから私は糸が切れること、本の糸が。
谷井:韋編三たび絶つ。
小野:韋編三絶ですか。ほんとに料理の本が韋編三絶です。何か勉強してるのかなと思ったら料理の本。好きやったんよね。だけど私そんなん知らないから、初めのうちは私が作ってたんですよ。だけども、私が中国に 1 カ月行ったことがある。3 月に。ちょうど長女が中学生やったかな。彼女は料理が好きなんですね、ものすごく。ところがその時試験あってできなかった。そしたら彼が毎日作った。それを聞いてそんなんできるんだと思って。
小浜:でも、それってもう結婚なさってからかなり何年もして。
小野:長女が中学生になった時。それまではだから、晩の食事は、私が用意するとか子どもに頼むとか、(職場が)遠くなってから、御蔵山17に来てからは帰ったら鍋が空っぽになって、ガスの上に乗っかってることありましたわ、子どもだけでね。だから、できるのに、能ある鷹が爪を隠してた。
小浜:だから、そういう時っていうか、例えば家事の分担についてなんかは、もうあんまり交渉というかけんかというかは、全然なかったんですか、じゃあ。
小野:うん。だから、送り迎えとか、そんなの全部してくれましたけどね。
小浜:だって、信爾先生、いかにも優しそうじゃないですか。
小野:そうそう、言うたらするんです。
小浜:じゃあ、言わないと。
小野:今はできないからね、もう。
須藤:じゃあ、お嬢さんたちはどう思われてたんでしょうね。お父さんが料理をたくさん作ってくださっててっていうのは。
小野:それもありますけど、上の子が試験で出来ない時の、たまたま私が北京行った 1 カ月の間、お父さんが作らざるを得なかった。毎日変わったもん出したって自慢してましたから。
須藤:お嬢さんたちとは、先生は先生の研究の内容とか話されましたか。
小野:いや、しないね。
須藤:全然しない?
小野:そうなの。ほとんどしたこと、ない。
須藤:お嬢さんのお友達とかは、お母さま、多分専業主婦っていう方が多かったんじゃないかと思うんですけど。
小野:だから、お母さんおうちにおってほしいということは、下の子は特に言いましたね、ものすごく。それで、私しょうがないから、父母会、PTA の時なんか、研究所からタクシーで帰って、5,000 円かかるんね。タクシーで帰って、ちょっと参観だけして、彼女が振り向いて私がいるのが分かったら、もうすぐ帰って、そんなこともありましたよ。
杉本:当時は学童保育みたいなのはありましたか。
小野:学童保育は何もなかった。
杉本:ないですよね。じゃあ、家に帰って、どうなさってたんですか。
谷井:学校からおうちに帰ってこられて。
小野:ほったらかし。
谷井:鍵開けて?
小野:鍵持たせて鍵っ子にしてあったわけ。表の玄関だけ鍵閉めて、窓は戸を開けっ放しにしてあった。いつか泥棒に入られてね。母ののこした指輪盗まれたことがある。だから、それより他にきっと盗まれたんのあるのに違いない。それも分からない。
小浜:でも、先生は毎日研究所行ってらっしゃるけど、信爾先生は院生で大学も行かなかったら、子守りはしてくださらなかったんですか。
小野:子守りはしなかったね。いやなそんなことはない。保育所の送迎はしてくれました。
彼はいつ勉強したのだろう。みんなが寝てからでしょうね。今の人はいい面もあるけれども、また違ったしんどさがあるでしょ。
谷井:そうですね。

【矢野事件】

谷井:その点も聞かせていただいていいですか。矢野事件ありましたよね、矢野事件。あれで随分と大変だったと思うんです。ちょうど退官を控えて、かつ著書の出版を控えてということで、大変な時間とエネルギーを使われたと思うんですけれども、でも、大変いろんな意味で有意義な活動になったかと思うんです。
ただ、やっぱり研究と、もちろん家庭のほうもありますけれども、それ以外に言ってみればそういう社会的な活動、なかなかバランス取るのが難しいと……
小野:難しいね。
谷井:思うんですよ。その点についてどうお考えです?
小野:だけど、矢野事件の時は必死やったからね。私の辞める 3 カ月前、ちょうど矢野事件が始まった時、もうそればっかりにかかりっきりになりました。だけど、もうそれはしょうがないと諦めて、ほいで(出版を)「もう 1 年延ばしてほしい」言うたんですけど、「それはあかん」言われて、とにかく 1 年遅れただけで(著書が)出ましたけど。

【老人施設】

小野:でも、あなた方はお年寄りの問題はあまり関係しておられないでしょうけど、小野が倒れてからは、やっぱりここハーモニーがあったおかげで、どれだけ助かったか分からないですね。最初、御蔵山の住宅地で、普通の家で老人ホームを開かれて、「こんにちは」といって縁側に座るという感じの老人ホームをつくりたいというのがこのハーモニーの考え方だった。そういう所がちょうどできたところだった。
大濱:どういう方がおつくりになったんですか。
小野:ここで福祉生協いうのをやってた人たちの集まりがあったみたいです。私ももう少し掘り起こしてみようかなと思うんですけどね。何か福祉に関心を持ってた人たちがだんだん集まってつくったみたいですね。
谷井:それは本業としてではなくて?
小野:本業としてでなくて。
谷井:それはなかなかすごいですね。
小野:すごいですね。こういう町でつくったわけやからね。
(休憩)
小浜:もうだいぶたくさん伺ってるんですけど、残りもうちょっと聞きたいっていうのだけをお願いします。
大濱:先生、こちらの『中国女性史』が、英語版と韓国語版と中国語版が出されたと。先生が韓国版は全然ご存じなかったということでしたが。
小野:うん、中国語版は研究所に入ってたんですけれども、高大倫っていう人が『中国女性史』っていうようなの、私の翻訳じゃないかと思ってね18
大濱:そうです、おんなじです。
小野:おんなじ内容。
大濱:いや、びっくりしました。95 年頃。
小野:私の名前は出してないんよ。高大倫のは確か。表に出してない。
大濱:表に出してないんですね。中を見ると、いや、小野先生のだっていうのが 90 年代半ばに分かって、多分 87 年ぐらいにそれが中国で出て。その後に体系的な近代女性史研究みたいのが中国の研究者によっていろいろ出されているので、非常に先行ってるなっていう。先生、それご存じ?
小野:もう中国のこと、最近、全然もうニュースソースがないから。
杉本:著作権とかそういうものも、何もないんです?
小野:いや、中国は出版協定を結んでないから。
小浜:80 年代には。
小野:著者には出すから言うて連絡しないんですよ。出てるんですか。
大濱:それが、90 年代半ばに私が留学をした時に、中国国家図書館でいろいろ近代の中国の女性史関係の本を探してる時に、数が少なかったんですけど、先生の翻訳本を見て、中国の方の女性史、……
小野:高大倫っていう人?
大濱:そうです。中身を見ると小野先生のだった。87 年。
小野:うん、そうそう。四川大学出版社。
須藤:高大倫さんとは面識もないんですか。
小野:はい、小野が行った時に、向こうが都合悪くて会えなくって、彼が来た時には私のほうがちょっと追い込みに入ってる時だったので、原稿の締め切りで時間がなかったから合わなかった。えらい悪いことしたなと思ってるんですけど。
大濱:中国からの反響とか、そういうのも先生には届いていない?
小野:いや、届いてない。いや、中国の人たちはどんなふうに思ってるんやろなと思って、知らない。全然聞いてない。
大濱:そうですか。
小野:そう。聞かれました?何か。
大濱:いやいや、その方は存じ上げないんですけど、自分で調べて、その後に中国の研究者による体系的な中国女性史が 88 年、89 年19。それより前は、どちらかというと婦女連の資料集であったりとか、そういうものは割と出ているんですけど、体系的なものがあんまり出てなかった。
小野:そうですね。私もそれぐらいまでは出てないか気を付けてたつもりですけど。
大濱:そうですね。ただ、その頃に、80 年代から中国でも女性運動史研究が。
小野:運動史やね。
大濱:それを編纂しようと思っていて、それで先生の本の翻訳をされたのかなとかって。
小野:そう?
大濱:はい。そういうふうに、今ちょっと感じたりはします。
小野:そういえば、中国の出版社というのはものすごくいい加減なんですよね。一言でも断ったらいいのに、断ってこないから、私は知りません。
大濱:今は多分そういうことはないと思いますね。
小野:そうですか。いや、中国がやったらもっとたくさん資料もあるし、もっと詳しいことが分かるんだから、いろんな具体的な日常の女性の姿なんかを絶えず見てるわけですからね。
あったらいいと思うんだけど。
大濱:中国ですら、ないっていうか、体系的な近代の女性史がないところで、先生はどのようにして資料とかを収集して、どういう構想の下で書かれたのかなっていうのは、ちょっと気になります。
杉本:資料を一から全部探されたっていうふうに(『中国女性史』の)後書きに書いておられるので。女性史の先行研究が全くない中で、資料を一から調べて書いて。
小野:そうそう。だから、陳東原の(『中国婦女生活史』1928 年初版)ぐらいしかなかった。
須藤:そうでしたね。
小野:なかった。全く。だから、自分の論文を下敷きにして書いたわけね。太平天国について 1 つ書いたでしょ。それから、戊戌変法、「清末の婦人解放思想」、これが出発点なんですけど、これ、岩波書店の人がちょっと女性史に関心を持ってて、『思想』に書かないかいうて言った時に、この題はどうかっていうふうに言ってくれたから書いたわけでしょ。それから、辛亥革命のは、研究所が近代史を順番にやっていった時に書いた。戊戌変法、辛亥革命、五四運動というふうに、その度に書いたもの。それを積み重ねただけです。
大濱:すみません。先生のご専門は明清?
小野:明清。
大濱:でも、こちらの『中国女性史』のほうは、近代から始めておられる、太平天国から書き始める、説き起こされてらっしゃるじゃないですか。それは何か。
小野:いや、その明清にまでわたって書くのはとても難しかったから、もうそんな古いところなんかやったらとても書けないと思ったからです。だから、そりゃ中国の人が書いてくれんと困りますよね。
近代なら、少し手慣れたところで資料引っ張ってくることができたんですけれども、明についても私は無理だと思いますね。女性の文集を探し出してきて、それを読むなんていうのはちょっとできないわ。それに、誰か 1 人に絞ってやるとか、そういうことはできたけれども、女性史として書くことは、ちょっとそれはむり。誰かが女詩人のことを書いてたね20 19。だから、何か特定してやったらできるけれども、明清にわたって書くというと、非常に難しいでしょうね。何か特別に 1 人取り上げるとか、分野を限って、範疇(はんちゅう)を決めてやるとか、そういうんやったらできるんじゃないかな。ぜひやってほしいですね。
谷井:最近、档案資料使ってやってる人はいます。
小野:档案資料は、いい資料になると思いますね。裁判の資料なんか使ったら。
谷井:そういうの使ってやっておられる方。
小野:夫馬(進)君なんかはね。いろんなもんを。家譜とか使うこともできるし、女詩人のことは書いてる人がありますね。
須藤:やっぱり近代だと、小野先生が世界的に見てパイオニアなんだろうと思います。
小野:そんなことないですけど。
須藤:多分前に上海でシンポジウムがあった時に、あれ多分『女界鐘』100 年記念でした21
小野:その時あなたとお会いしたんですね。
須藤:その時に、ドロシー・コウ先生22と、あと王政先生23、あと復旦大学の陳雁先生たちが皆さんいらっしゃったと思うんですけど、確か小野先生のご紹介の時に、やっぱり私たちの大先輩でパイオニアでっていうご紹介をされてたと思うんですよ。なので、私多分一緒の所にいたので。すごい、やっぱり際立って。一番最初のパネルだったと思うんですけど。
小野:そうですか。
須藤:はい。ドロシー・コウ先生と王政先生もご発表されて。馬君武のことでしたよね、小野和子先生は。
小野:私が馬君武のこと、しゃべったんだ24
須藤:その時のご紹介の時に、その時やっぱり小野先生の偉大さを、思いました。
小野:いや、それは外国人だから書いたんでね。
須藤:いえいえ、もうあの時それで。
小野:本国人だったらなかなか難しい問題が。
須藤:でも、だからこそで、中国語訳と英訳とあったので、全員ほぼ読んでるっておっしゃってたと思うので、やっぱそれはパイオニアというか、先駆者としてはやっぱり皆さんご存じのっていうご紹介だったと思うんで。
小野:いえいえ。だって、もう私の女性史は古いんでね。だから、少し新しいフェミニズムの理論なんかを使って書いてくださった、今の。
須藤:その時の会、結構大きな会で。
小野:なかなか難しいんですね。これから、詩なんか読むというのはやっぱり特殊な技術ですからね。しかも、そこに込められた意味を探すとなったら、もっと難しいからね。なかなかできないですね。私らはもう無理です。これから若い人に。

【慰安婦問題】

小浜:須藤さんが、最後にお聞きしたいことがあるようで。
須藤:ちょっとお聞きしたかったことなんですけど、その上海の会議の時に、確か台湾の游鑑明先生25が慰安婦のことで発言をされました。
小野:慰安婦のこと。
須藤:覚えてらっしゃいますか。ちょっと覚えてらっしゃるかどうか分からないんですけど、確かその時に慰安婦の話をされて、その時に小野先生が私に、「やっぱり游先生がそのようにおっしゃってるので、日本人として私は何か言わなきゃいけないんじゃないか」とおっしゃって、「その時は通訳してくださいね」って言われたんです。けど、私、游鑑明先生ともとても仲が良くて、游先生は多分日本を批判するというよりは、女性に対する性暴力ということで言われてたので、どうしようと思って、「でも游先生はそういう意味ではないかもしれません」って言って止めてしまった形になっちゃったんです。
小野:そうですか。いや、覚えてなくて。
須藤:でも、後になって考えて、やっぱり日本人の研究者は、多分あの場にいたの少なかったと思うので、やっぱり小野先生から何かご発言があったほうが良かったのかなっていう反省があります。その時に、小野先生がどういうふうにお考えだったんだろうっていうのがずっと引っ掛かっていて。
小野:そうですか。もう慰安婦の問題は、石田(米子)さん26なんかがよく頑張って、現地まで行って調べてきて。いや、私、慰安婦の問題は向こうへ行って、やった男の問題でもあるけれど、ほんとは日本に残された妻の問題でもあると思うんですよね。つまり、夫がそういうことをすることを許したというか、そういう考えを持たせてしまったということ。だから、そこのところをもうちょっと女性の立場から正していく必要があるんじゃないかなという気がしてるんですけどね。単なる男の性欲の問題とかいうんじゃなくてね。
小浜:いや、慰安婦のことはやっぱり小野先生、随分いろいろ考えておられるっていうのは、あれ、何年前かな。河野談話を日本政府がもう否定するのではないかという動きになりかかった時に、それはまずいだろうっていうので、何かこれは動かなくちゃいけないんじゃないかというふうに電話を頂いたことがあって。
結局、この慰安婦問題をかなり専門的に研究しておられる林博史さんっていう方と私が取りまとめ役になって、河野談話を否定することを許さない研究者の声明みたいなものを出したことがあるんですけど27、その時にやっぱり小野先生から、しっかり対応しなくちゃいけないというふうに。
小野:ありましたよね。
小浜:ええ。電話を頂いたことはよく覚えてます。
須藤:良かったです。今日は深く話が聞けて。
小野:いえいえ。
須藤:私自身もちょっといろいろ考えなきゃいけないなという反省を新たに。
小野:いえ、もう私は役目は終わったので、これからはあなた方の世代なのですけど。
小浜:石田米子先生って、東大の東洋史で初めての女性の卒業生は柳田節子先生28かな、それに続くやっぱりすごく最初の方なんですね。お若い時に『アジア・アフリカ人民連帯の歴史学のために』に、すごいしゅぱっとした論文書いておられたんだけど、その後ずっと岡山大学にいらっしゃることは知ってたけど、あんまりお書きになったものを見ないでいたら。
小野:山西省?
小浜:晩年になって山西省の(慰安婦の)活動ばりばりやり出してっていう。やっぱりそういうふうにして考えたら、柳田節子先生は中国女性史研究会の創設者の 1 人で、私も随分お世話になったんですけど、最初からは別に女性史やらなかったパイオニアの先生方、みんな何かやっぱり(女性史に)関わっておられるなっていうような気がしますね。
杉本:私は大学生の時に、先生の論文を拝読いたしました。それで、もうこんなに面白い分野があるのかというふうなことで女性史を始めましたので、それだけ何としてでもお伝えしたくて。
小野:ありがとうございます。何かものすごい退屈な本だと言われたり。
杉本:すごいですよ。

【中国への想い】

小浜:いや、先ほどかなり伺った気はするんですけど、最近の中国のかなり政治的に大変な状況の中で、どういうふうに日本にいるわれわれが、特に研究者として考えればいいのかなというふうなことが、われわれの課題なのかもしれないんですけど、先生が今どういうふうに見ておられるのかなというのを少し伺えればと思いました。
小野:いや、中国のやることはしょうがないと私なんか思ってますけど。もう、だってあれだけの大きな国が、それは孫文が連省自治言うたけれども、何かもう一つの国としてまとまって行動するいうことは不可能やねっていう気がしますね。
だから、京都の中国学というのは、何か中国に根差して中国のことを考えよう。中国というその文化を、対象化する、客観化してそれを遠くから批判するんじゃなくって。そういう気持ちが私の中にまだありますけれどもね。
だけども、これをどうにかするということはどうもできないことですよね。内部から理解して、少なくともなんでそういうことが起こってるのかということを理解することすら容易でないわけでね。でも、なかなか難しい時代に入りましたね。もう今までの単なる日中友好みたいなのでなくてね。
こないだ平岡先生だったんかな。平岡武夫先生もなんですけど、やっぱりあれですね。あの時代の人というのは、私らと違った中国への向き合い方、つまり戦争中だったわけですね。
それにもかかわらず、中国に対して非常に親近感を持って、中国を理解しようと。つまり、人と人との関係として付き合っていこうというのがありますね。
それで、私、平岡先生なんか大嫌いだった、あの光った頭をぱんとはじきたかった。それぐらい嫌いな人やったけど、やっぱり老先生方の持っておられた中国への、中国文化への気持ちというのは感じますね。ものすごく私らと違うけど。
須藤:先生のご著書を拝読して、やっぱり中国に対する思い、パッションというか、そういうものをすごく感じます。
小野:そうですか。京都の人は割と、やっぱり私らより上の人は持ってはると思うんですよね。私、平岡武夫の、平岡さんとは仲悪かったけど、あの人の何やったかな。顧頡剛のこと書いた本、あれなんか読んだらほんとによく分かりますね。老先生方が思ってる中国文明に対する尊敬というか、それが非常によく分かる。京都の人はそれぞれに持ってたと、多分思うんですけどね。島田先生なんかもそうですけれども。
あなた方から期待されたような話は全然できなくて、申し訳ない。
小浜:いやいや、いろいろと伺って。
谷井:でも、ずっといろいろなものを読んでらっしゃるんですね、もう日常的に。
小野:時々ね。堅いものは読めないんですね、ほんとに。自分の本を読んで、引っ掛かるところを見つけるんじゃなくて、よう書いたなと思ったりしてね。昔はもう思い出して、こんな書き方してるってのは、あそこをこう書くべきやったと思って、読むのが嫌だったんですけどね。この頃はそうならんくなってしまった。ということは、資料のことなんかもう忘れてしまってるのよ、ほんとに。
もうだから、置いてあっても気にならない。今まで目障りやったんです、自分のもの置いてあって、読み返すいうのが嫌だったんですけども、この頃嫌っていうことない。読むのが、持ってきてるものが少ないからですけどね。もう最近のものは全然読んでないから。誰かぜひ若い人が、全く違った女性史を書き直してください。いや、ほんとごめんなさい。何にも大した話をできなくて。
小浜:いや、非常にいろいろありがとうございました。
大濱:長時間にわたって、お疲れになってない?
全員:ありがとうございました。

2024 年 11 月 3 日、ハーモニー東風館会議室にて。左から 3 人目が小野先生。

<注>
  1. 西川祐子(1937-2024)京都文教大学名誉教授。研究分野はフランスと日本近・現代文学研究、女性史、ジェンダー研究。 ↩︎
  2. 島田虔次(1917-2000)京都大学名誉教授、東洋史(中国近世・近代思想史)。 ↩︎
  3. 森時彦(1947-2023)京都大学名誉教授、東洋史(中国近代史)。 ↩︎
  4. 同会のウェブサイトによれば、1981 年 10 月 31 日に第一回総会を開催している。 ↩︎
  5. 瀬尾芙巳子(1929-2022)東京大学経済学部大学院修了、1965 年京都大学経済研究所助教授、1983 年同教授、1993 年京都大学名誉教授、専門は意志決定論。 ↩︎
  6. Susan Mann カリフォルニア大学デービス校歴史学部名誉教授。同校で長く中国史を教えた英語圏の中国女性史・ジェンダー史研究の草分けの一人。1999‐2000 年アメリカアジア学会(AAS)会長。 ↩︎
  7. Joshua A. Fogel & Fumiko Joō, Japanese for Sinologists: A Reading Primer with Glossaries and Translations, University of California Press, 2017.日本の中国学者を紹介する同書の第 3 章に小野先生が取り上げられている。 ↩︎
  8. 1993 年の秋頃に、京都大学東南アジア研究センター教授・所長(当時。1993 年末に辞職)であった矢野暢氏が、複数の秘書にセクハラを行っているのではないかということが表面化して、学内外で問題になった。京都大学女性教官懇話会の代表であった小野先生は、すばやく事実調査と対応を京大総長に要望された。 ↩︎
  9. 矢野氏が小野先生を訴えた裁判の判決で、被害者の一人である甲野乙子さん(仮名)への性暴力・セクハラが認定された。これは裁判でセクハラが全面的に認定された最初の事例で、その後、大学や企業でのセクハラ対策の制度が作られてゆくのにつながった。事件や裁判の過程や関連資料は、小野先生が記録を残すために刊行された小野和子編著『京大・矢野事件』に詳しい。 ↩︎
  10. ハーモニー東風館 ↩︎
  11. 小野信爾著、宇野田尚哉・西川祐子・西山伸・小野和子・小野潤子編『京大生小野君の占領期獄中日記』京都大学学術出版会、2018 年。 ↩︎
  12. 小野信爾『五四運動在日本』汲古書院、2003 年。同『青春群像:辛亥革命から五四運動へ』汲古書院、2012 年。 ↩︎
  13. 関西中国女性史研究会(代表:野村鮎子)の前身の、中国女性伝記研究会のことか。(筧久美子「研究会動向・関西中国女性史研究会」『女性史学』12 号、2002 年 8 月、参照) ↩︎
  14. 90 年代になると人文研の教員の組合参加率はそんなに高くはなく、小野先生も三重大学から戻られた後は参加されていなかったという。 ↩︎
  15. 井内真帆:京都大学白眉センター特定准教授。専門はチベット学・チベット史、特に中世チベット仏教。 ↩︎
  16. 正確には35歳(信爾は1930年10月生まれ)。 ↩︎
  17. 宇治市木幡御蔵山の長く住んでおられたお家のこと。 ↩︎
  18. 高大倫・藩勇編訳『中国女性史 1851-1958』四川大学出版社、1987 年。 ↩︎
  19. 中華全国婦女連合会編著『中国婦女運動史(新民主主義時期)』春秋出版社、1989 年、など。 ↩︎
  20. Susan Mann, The talented women of the Zhang family, University of California Press, 2007(邦訳は、スーザン・マン、五味知子・梁雯訳『張家の才女たち』東方書店、2024 年)など。 ↩︎
  21. 2004 年 6 月に復旦大学・ミシガン大学共催で行われた“百年中国女権思潮研究”国際学術研討会(The International Conference on Feminism in China Since the Women’s Bell) ↩︎
  22. Dorothy Ko(高彦頤)(1957- ):コロンビア大学バーナードカレッジ教授。香港生まれ。歴史学および女性学。著書の Every Step a Lotus: Shoes for Bound Feet を『纏足の靴』として小野先生が翻訳出版されている。 ↩︎
  23. Wang Zheng(1952- ):ミシガン大学名誉教授。女性学および歴史学。中国からアメリカに留学し、在中国の研究者と協力して中国人女性学研究者の養成システムの構築に尽力した。 ↩︎
  24. この時の報告は、小野和子「馬君武的翻訳与日本」(復旦―密歇根大学社会性別研究所編・王政、陳雁主編『百年中国女権思潮研究』復旦大学出版社、2005 年)として刊行されている。 ↩︎
  25. 游鑑明:中央研究院近代史研究所研究員。台湾における中国女性史研究のパイオニア。 ↩︎
  26. 石田米子(1935- )岡山大学名誉教授、専門は中国近現代史。1990 年代より中国山西省の日本軍性暴力被害者の調査を行い、石田米子・内田知行編著『黄土の村の性暴力―大娘たちの戦争は終わらない』創土社、2004 年を刊行。「山西省における日本軍性暴力の実態を明らかにし、大娘たちと共に歩む会」共同代表。 ↩︎
  27. 「河野談話の維持・発展を求める学者の共同声明」2014 年 3 月 8 日 ↩︎
  28. 柳田節子(1921-2006)元学習院大学教授。専門は宋・元時代の経済史・女性史。中国女性史研究会の創設者の一人。 ↩︎

小野和子先生略歴

1932 年0 歳大阪で生まれる。
1950 年18 歳 大阪市立扇町高校卒業。京都大学文学部入学。
1954 年22 歳京都大学卒業。同人文科学研究所助手に。
1956 年24 歳 小野信爾氏(当時、京都大学大学院生)と結婚。
1958 年 26 歳長女潤子さんを出産。最初の論文「東林派とその政治思想」執筆。
1963 年 32 歳次女啓子さんを出産。「黄宗羲の前半生」執筆。
1968 年36 歳 最初の女性史の論文「清末の婦人解放思想」執筆。
1969 年37 歳 学園闘争。「学問とは何か」を問われる。
1970 年38 歳 奈良女子大学で非常勤講師。中国近代女性史を講義(2 年間)。
1974 年42 歳初めて中国を訪問。人文研の代表団で。
1978 年46 歳人文科学研究所講師に昇格。『中国女性史』刊行。
1980 年48 歳京都大学女性教官懇話会を結成。「近代中国女性史研究」で京都大学文学博士に。
1985 年53 歳 三重大学人文学部に教授として転出。
1989 年58 歳 『中国女性史』の英訳本が出版される。
1991 年59 歳京都大学人文科学研究所に教授として戻る。
1993 年61 歳矢野暢京大東南アジア研究センター所長(当時)によるセクハラが問題となり、京都大学女性教官懇話会代表として、総長へ調査の要望書を出す。
1994 年 62 歳1 月 矢野氏を擁護する野田正彰氏への反論を『京都新聞』に発表。
3 月 矢野氏から『京都新聞』の文章が名誉棄損だと裁判を起こされる。
1995 年 63 歳 人文科学研究所を定年退官。京都橘女子大学(現・京都橘大学)教授に。
1996 年64 歳『明季党社考』刊行。初めて台湾、韓国を訪問。
1997 年65 歳3 月 京都地裁、矢野氏の請求棄却し性暴力・セクハラを認定。完全勝訴。
2000 年68 歳アメリカアジア学会(AAS)特別功労賞を受賞。授賞式のために渡米。
2002 年70 歳 京都橘女子大学を定年退職。
2007 年75 歳夫君の信爾氏が脳梗塞を発症。自宅で介護。
2011-17 年信爾氏の日記を整理して『京大生小野君の占領期獄中日記』を編集刊行。
2023 年 91 歳 自宅を離れ、夫婦で高齢者施設ハーモニー東風館に入居。

小野和子先生主要著作

<著書・編著・訳書>
  • 『黄宗羲』(単著)人物往来牡、1967 年。
  • 梁啓超『清代学術概論』(訳注)平凡社、1974 年。
  • 『中国女性史―太平天国から現代まで』(単著)平凡社、1978 年。
  • (韓国語訳)李東潤訳『現代中国女性史』韓国:正字社、1985 年。
  • (中国語訳)高大倫訳『中国女性史』中国:四川大学出版社、1987 年。
  • (英語訳)Joshua A. Fogel, Kathryn Bernhardt, et al. trans. Chinese Women in a Century of Revolution, 1850-1950, Stanford: Stanford University Press, 1989.
  • 『明清時代の政治と社会』(編著)京都大学人文科学研究所、1983 年。
  • 『五四時期家族論の背景』(単著)、『五四連動の研究』五函の一、同朋舎出版、1992 年。
  • 『明末清初の社会と文化』(編著)京都大学人文科学研究所、1996 年。
  • 『明季党社考―東林党と復社』(単著)(東洋史研究叢刊 50)同朋舎出版、1996 年。
  • (中国語訳)『明季党社考』李慶・張栄湄訳、上海古籍出版社、2006 年。
  • 『京大・矢野事件―キャンパス・セクハラ裁判の問うたもの』(編著)インパクト出版会、1998 年。
  • ドロシー・コウ『纏足の靴 ―小さな足の文化史』(小野啓子と共訳)平凡社、2005 年。
  • 小野信爾『京大生小野君の占領期獄中日記』(宇野田尚哉、西川祐子、西山伸、小野潤子と共編)京都大学学術出版会、2018 年。
<論 文>
  • 「東林派とその政治思想」『東方学報』28、1958 年。
  • 「清初の思想統制をめぐって」『東洋史研究』18 巻3号、1959 年。
  • 「明末の結社に関する一考察―とくに復社について(上、下)」『史林』45 巻 2 號、3 號、1962年。
  • 「黄宗羲の前半生―とくに『明夷待訪録』の成立過程として」『東方学報』34、1964 年。
  • 「永青文庫蔵『皇明文海』について」『東方学報』34、1964 年。
  • 「清初の講経会について」『東方学報』36、1964 年。
  • 「清末の婦人解放思想」『思想』525、1968 年。
  • 「顔元の学問論」『東方学報』41、1970 年。
  • 「儒教イデオロギーにおける正統と異端」岩波講座『世界歴史』27、1971 年。
  • 「太平天国と婦女解放」『東方学報』43、1972 年。
  • 「五四運動期の婦人解放思想―家族制度イデオロギーとの対決」『思想』590、1973 年。
  • 「社会主義中国の女性解放論」、一番ケ瀬康子編『入門女性解放論』亜紀書房、1975 年。
  • 「婚姻法貫徹連動をめぐって」『東方学報』49、1977 年。
  • 「家とは何か―五四運動時期における結婚論を中心に」『東洋史苑』11、1977 年。
  • 「辛亥革命時期の婦人運動―女子軍と婦人参政権」、小野川秀美・島田虔次編『辛亥革命の研究』 筑摩書房、1978 年。
  • 「旧中国における 『女工哀史』」『東方学報』50、1978 年。
  • 「東林党考(一)―准撫李三才をめぐって」『東方学報』52、1980 年。
  • 「『萬暦邸鈔』と『萬暦疏鈔』」『東洋史研究』39 巻 4 号、1981 年。
  • 「東林党考(二)―その形成過程をめぐって」『東方学報』55、1983 年。
  • 「東林業と張居正―考成法を中心に」、小野和子編『明清時代の政治と赴合』京都大学人文科学研究所、1983 年。
  • 「原始母権制社会説の検討」『古史春秋』1号、朋友書店、1984 年。
  • 「鏡花線の世界―清朝考証学者のユートピア像」『思想』721、1984 年。
  • 「山西商人と張居正―隆慶和議を中心に」『東方学報』58、1986 年。
  • 「動乱の時代を生きた隠元禅師」『禅文化』124、1987 年。
  • 「『留書』の思想」、岩見宏, 谷口規矩雄編『明末清初期の研究』京都大学人文科学研究所、1989 年。
  • 「明・日和平交渉をめぐる政争」、明代史研究会・明代史論叢編集委員会編『山根幸夫教授退休記念明代史論叢(上)』1990 年。
  • 「清末の新刑律暫行章程の原案について」、柳田節子先生古稀記念論集編集委員会編『中国の伝統社会と家族:柳田節子先生古稀記念』 汲古書院、1993 年。
<その他>
  • 「戦後民主主義からの出発―中国政治史」、『女性研究者は歩む―20 世紀から 21 世紀へ』女性研究者の会・京都(編・刊)、1999 年。
  • (書評)石田米子・内田知行編『黄土の村の性暴力―大娘(ダーニャン)たちの戦争は終わらない』『女性史学』15、2005 年。

☆なお、下線を引いた個所は、『中国女性史研究』に発表したものに誤りがあったのを修正した部分である。

(以 上)